ロサの嵐を聴きながら─ブエノスアイレス便り
未明の地鳴りのような雷鳴で⽬が覚めてから、どれほどの時間が経ったでしょう。カーテンの隙間から⼀瞬ひらめいて天井を明るく照らした凄まじい閃光と、窓ガラスに叩きつける容赦ない⾬⾳。コツコツと何かを叩く不規則なノック⾳が気になってカーテンを開けると、どうやら強⾵に煽られて⼤きくしなるプラタナスの裸枝がベランダの⼿すりにぶつかる⾳だったようです。いつもなら昼夜の別なくひっきりなしに甲⾼いブレーキ⾳を軋ませて⾛るバスの騒⾳も、なぜかぱったり途絶えてしまい、奇妙なほどひっそりと静まりかえって闇に沈む街路には、ショーウィンドウの光を淡く滲ませて歩く⼈の影とてありません。冬の終わりを告げるべく「サンタ・ロサの嵐」がやって来ているのです。
サンタ・ロサ、サンタ・アナ、サンタ・ロサ、サンタ・アナ……。微睡みから覚めやらぬまま、ぼんやりと聖⼥の名を付した強⾵に思い巡らせていました。『霧のコミューン』に書き込まれた印象的な「微気象」の⼀節に思い巡らせながら。北半球の夏から秋にかけてカリフォルニアの各地で⼤規模な⼭⽕事を引き起こす「サンタ・アナ」と、南半球の冬から春にかけて湿潤パンパから⼤⻄洋にかけて冷たい⾬と強⾵をもたらす「サンタ・ロサ」は、熱⾵と寒⾵の違いこそあれ、どちらもその⼟地に住むひとびとに微気象の感覚を与えてきた点で似ていると思いませんか。永久に続くと思われた灼熱の夏が⼒を失い、次の季節へと移りゆこうとするときに、瘧のように⾝を震わせて⾵を引き起こし荒れ狂うサンタ・アナの「気」の「象」と、北からの熱く湿った空気に乗って何⾷わぬ顔でやって来る春の気配に反旗を翻し、南極の冷気で応じるサンタ・ロサの「気」の「象」は、どちらも不機嫌にむずがる双⼦の姉妹のようです。おもえば8⽉終わりにかけてのここ数⽇間というもの、「サンタ・ロサ」の名は囁き声となって⼈びとの⼝の端からこぼれ、街中に溢れていました。熱帯性低気圧はむろんのこと、内陸部に多い⻯巻にもほとんど縁のない穏やかな気候に馴らされてきたこの街の⼈びとにとって、⽬の前に広がるラプラタの⼤河にゆっくりと、しかし確実に⽔⾯上昇を引き起こしていく篠突く⾬の脅威は、⼈間のコントロールの及ばない存在に対する畏れを思い出させるのでしょう。
「サンタ・ロサの嵐」という名前は、半ば神話化された実在の歴史的⼈物、聖ロサに由来しています。サンタ・ロサ・デ・リマ、リマの聖ロサ。⾔わずと知れたラテンアメリカやフィリピンの守護聖⼈、17世紀にカトリック教会によってアメリカ⼤陸で最初に列聖され信仰を集めてきた聖⼥のことです。苦⾏と清貧と祈りの⽣に暮らし、貧者や病者を扶けてかれらのあいだに数々の奇蹟を起こしたドミニコ会の第三会員。オランダの海賊がペルー副王領の⾸都リマの港町カジャオを急襲し、リマ本体があわやその⼿にかかろうかというときに、サント・ドミンゴ教会の祭壇に駆け上り⾃らの⾝を捧げて海賊を撃退した奇蹟の聖⼥。むろんサンタ・ロサの「嵐」という不穏な呼び名は、このとき彼⼥が引き起こした嵐からきています。その後リマの聖ロサは、18世紀にはスペイン⼈の⽀配に抗い叛乱の狼煙をあげた新⼤陸出⾝者の守護聖⼈となり、19世紀にはペルー独⽴運動や隣国チリとの太平洋戦争で祖国を守護する愛国的聖⼈へと神格化されました。
けれどわたしが⼼惹かれるのは、偉⼤な聖⼈として敬われてきた聖⼥ロサではなく、⽣後3ヶ⽉で顔が薔薇に変わる奇蹟を起こしたことから「ロサ(薔薇)」と呼ばれるようになった、メスティーサのイサベル・フローレス・デ・オリーバのほうなのです。26才で神の愛の⽮に貫かれ⾝のうち深く押し⼊られる法悦を経験し、そのことで異端審問所の医師フアン・デル・カスティージョから尋問を受けたイサベル。イエス・キリストと「神秘の結婚」で結ばれた聖カテリーナに深く帰依し、カテリーナに倣い恍惚と幻視を授かった悦びを、エロティシズム溢れる素朴な2枚の絵に描いた裁縫上⼿の少⼥。幾たびか⾯会を重ねるうちに、やがてカスティージョ医師に奇蹟のヴィジョンを幻視させるようになった美しい在俗信徒。
しかし31才の若さでこの世を去った後ほどなくすると、イサベルにまつわる聖遺物は異端審問所の命によってサント・ドミンゴ教会から撤去され、カスティージョ医師が書いた本は異端審問官フアン・ムニョスによって検閲・禁⽌されてしまいました。異端と正統の線引きを溶解させる忘我の瞬間を⽣き、それゆえに異端審問所から危険視されたイサベルというひとりのメスティーサの実存は、その後の植⺠地ペルーの政治的御都合主義によって捏造された聖ロサの表象によって上書きされ、忘れ去られてきたのです。
であればこそ、サンタ・ロサではなくイサベルの嵐であってほしいとわたしは思ってしまうのです。異端と正統、世俗と聖性、⾃⼰と他者をゆるやかに接続し連続させることで、カトリック教会や聖堂参事会が恭しく掲げる「神聖」やら「正統」やらを軽やかに汚染したイサベルのほうが、嵐が喚起する微気象の感覚にふさわしい。きっとあなたならこんな不埒な妄想に⾸肯してくれることでしょう。
いつにもまして⻑々とお喋りしてきてしまいました。あぁ、どうやら嵐もおさまってきたようです。空も⽩みはじめてきて、ほら、⾬も微⾬に変わっています。もうすこししたら、ボルヘスが詠んだ⾬の気配を探しに街に出ましょう。ボルヘスが愛したこの薔薇⾊の街は、⾬の気配をたっぷり吸って、死者と⽣者が⾏き違い交錯する「偶有性」の共同体になっているはずですから。そう、あの霧のコミューンに。
突如ようやく午後は明るんできた もう⼩糠⾬になっているだけなので。 降る、ないしは降った。疑いなく⾬というのは 過去に起きるものなので。 ⾬が降る⾳に⽿を澄ませれば ロサ〔薔薇〕と呼ばれる⼀輪の花が顕現し ⾚い不思議な⾊をあらわした あの恵まれた幸運な時を取り戻すことができる。 窓ガラスを潤ませるこの⾬は 遠く失われた郊外では ひと房の⿊葡萄に瑞々しい確かな⽣気を与えるだろう もういまは存在しない中庭。⾬に湿った午後は わたしのもとに声を送り届ける、⻑く聞きたかった声を、 死すことなく回帰するわたしの⽗の声を。 (Jorge Luis Borges, “La lluvia”)