今日という日の扉

広い内灘の水平線の上に 離れ島の青黒い影がくっきりと浮いていた。 蘇った茜色の無垢の空に向かい 一年の始まりの詩が囁く未発の翳をたどる ……きみはわたしの傍らで まだ眠っていた。 元日はきみを発明したのに きみはまだ 今日という日によって 自分が発明されたことを 受け入れてはいなかった…… 声ははじまりの時を 時というものの発明の吐息を やわらかに放射した。 詩はそんな世界の蘇りを目撃することができる ほとんど唯一の至福の泉だった。 詩を書くとはいかなる行為だろうか? ナワトル語ではショチトリ - クイカトリ すなわち花-歌 この混合語の意味するものはとても大切だ。 ショチトリ - クイカトリ 花 - 歌 それは美しいもの それは歌われるもの でもやがて萎れるもの やがて宙空に消えゆくもの ただ美しいだけではないもの 永遠でもないもの 私が作り 君が作ったようで 誰が作ったのでもないもの 所有できないもの つつましく分有しながら ついにはどこかに放擲すべきもの。 書き物机の上で偶然生まれ ついに宿命とともに宇宙空間へと翔び去っていくもの。 「テーブルの上の惑星」 ウォレス・スティーヴンズは詩のことをそう呼んだ。 エアリエルはよろこんだ 自分が詩を書いたことを それは思い出に残る時間や 見て気に入ったものの詩だった。 そのほかに太陽がつくったのは 消費と混乱 潅木の茂みがのたうっていた。 自分と太陽は一つだった 詩は 自分でつくったとはいえ 太陽がつくったのではないとも言えなかった。 詩は生き残らなくてもよかった だいじなのは 詩がこの惑星の一部であって ある輪郭や性格を あるゆたかさを ことばの貧しさのなかで いくらかでも はらんでいなければならないことだった。 (Wallace Stevens, “The Planet on the Table,” 1953. 今福龍太訳) 貧しさのなかにはらまれたaffluence 豊饒さ 慎ましさの泉からだけあふれ出ることのできる清冽な水 そんな水としての詩は冷たく 暗く、深く、透明に流れ、虚空に躍る。 音節はつぶやき、抑揚は波打ち 浅瀬はささやき声をあげ ことばの川の中洲では丸い石たちが ピリオドになろうかコンマになろうか がやがやと相談している。 黄金の条をもった若鮎ははやばやと クエスチョンマークへと変身し ドジョウはアンダーラインのように 川床に寝そべっている。 そんななか 詩としての水は走りつづけ やがて銀色に輝く河口に到達し 早暁の海へと自ら跳躍する 踊りながら。 Dancing at the threshold…… 踊ることは思い出すこと。 踊ることは思いを振り切ること。 踊ることは思いとともに生きること。 踊ることは失うことを怖れないこと。 踊ることで生まれる詩。 踊ることこそ詩。 詩は信じる。 失ったものたちが与えてくれる恩寵を。 喪失することによって獲得される かけがえのない賜物を。 若くして燃えつきた夢 そして希望の再生を。 苛烈に燃えた夢のブラジル樹 黒檀の希求の心 その燃え残りの灰の堆積のなかに 未知の詩の泉があると信じて ぼくはいま 今日という日の扉を開ける。

(初出『KANA』27号、2020)